ほぼ毎日何らかの映画を観ている司法書士です。高1の夏に購入したAIWAの「ヘッドホン・ステレオ」で毎日16時~FM802「ロックキッズ802」で洋楽を勉強しました。一般常識としてマイケル・ジャクソンを知っていたものの、91年「ブラック・オア・ホワイト」で完全に彼の虜になりました。
あらすじと基本情報
厳格な父ジョセフの指導のもと、兄弟グループ「ジャクソン5」で幼くしてスターダムを駆け上がったマイケル。ジャクソンズを経てソロで才能を爆発させ世界的アイコンへと成長する一方、栄光の裏で募る孤独と、父の呪縛からの解放を模索する青年期を描く。
| 原題 | Michael |
| 公開年 | 2026 |
| ジャンル | ドラマ |
| 監督 | アントワーン・フークア |
| キャスト | ジャファー・ジャクソン、コールマン・ドミンゴ |
パワハラ上司を『スリラー』で成敗した男
伝記映画というジャンルは薄っぺらくなりがちである。本人の人生を120分そこそこに圧縮するのだから、描けないことが五万とあるのは当然だし、ましてや音楽・芸能であればありとあらゆる人や楽曲の権利関係というやつが立ちはだかって「本当に描きたかったであろう部分」がごっそり抜け落ちているのも、まあお約束である。今回の映画『マイケル』も、青年マイケル・ジャクソンと父親との確執にぐっとフォーカスした構成で、良くも悪くも「そこだけ」感は否めない。
とはいえ主演を務めたマイケルの甥っ子、ジャファー・ジャクソンのマイケル再現度には、素直に感服した。繊細な声だけでなく、ムーンウォークも指先の動きも、恐ろしいほど本人に寄せてきている。顔立ちは異なるものの、ルックスもなかなか。ただし正直に言うと、本人の方が圧倒的にスタイルが良く(9頭身はあるのでは)、華奢で、とんでもなく足が長く、小顔だった。この差はもう努力でどうにかなる領域ではない。
さて、この映画の父ジョセフ・ジャクソンである。肩書きは「父親」だが、実態はどう見ても「音楽事務所の超ワンマン社長」、それも創業者にして唯一の株主、パワハラ相談窓口は勿論存在しない完全ブラック企業のCEOだった。子供たちは「息子」ではなく「労働力」であり「投資商品」であり「自分の夢を代理達成させる駒」である。しかもこの社長、自分自身はミュージシャンとしてはさして成功していない。つまり「野球で挫折した父親が息子に千本ノックを浴びせるタイプ」のステージパパバージョンだと思えばだいたい合っている。妻に労働力(=子供)を量産させ、自宅を完全支配できる王国に仕立て上げたわけだ。
しかし、この映画における父の虐待描写はかなり手加減されている。実際はもっと壮絶だったはずだ。マイケルや兄弟たちへの精神的・肉体的な虐待は、単なる「厳しい父親」の範疇を超えていたと言われているし(両親ともに「躾の範疇」と否定)、目の前で繰り広げられた父の不倫、そして隠し子の誕生という、家庭内カオスまで経験させられている。さらにマイケルが後年こだわり続けた鼻の整形についても、この父からの心無い容姿への言葉が影を落としているという見方もある。要するに、映画で見せられた「厳格な父」というのは、実物の何割引かの、映画向けにマイルドカットされたバージョンなのだと思う。
父親を地獄の底へ突き落としてやりたいと、幼いマイケルは何度も願ったに違いない。皮肉にもその怨念とも呼べるエネルギーが、結果として彼を人類史上最高峰のスーパースターへと押し上げる推進力になった――というのが私の見立てである。つまりマイケルは、法廷でも、殴り合いでもなく、「歌って踊って世界を制覇する」という誰も真似できない方法で、父親に完全勝利したのだ(映画のとおり、マイケルはジャクソンズの「ヴィクトリー・ツアー」を最後にソロに専念する)。実に痛快な逆転劇である。
ただし、である。この完全勝利、悲しいことに勝者本人にしか自覚がない。父ジョセフの方はと言うと、恐らく「息子にやられた」という自覚は限りなく薄く、むしろ最後まで「俺がマイケルを見つけて、俺が育てて、俺がスターにしてやった」という手柄横取りモードのままだったはずである(マイケルの歌唱力を最初に見出したのは母キャサリンと言われている)。パワハラ上司というのは大抵そうだ。部下がどれだけ結果を出そうと、脳内では「これは俺のプロデュース力の勝利」に変換される謎の翻訳機能が搭載されている。だから息子がどれだけビルボードを制覇しようが、ジョセフの中では溝は埋まらないどころか、そもそも溝の存在にすら気づいていない可能性が高い。これはもう、勝っても勝っても勝った実感が得られない、なんとも報われないタイプの勝利である。
そもそもこの親子、構造としては完全に「パワハラ上司と、それに何も言い返せない新人部下」である。上司(父)はすでに権力を握っているので、部下(マイケル)の立場に立って物事を考える発想そのものが存在しない。想像力という筋肉がそもそも鍛えられていないのだ。一方の天才マイケルはというと、あれだけの表現力を歌とダンスに全振りしてしまったせいか、言葉で正面から「あなたのやり方はおかしい」と主張する言語化能力は、驚くほど発達していなかったように見える。これはよくある話で、才能というのは先に爆発し、言語化能力はいつも遅れて追いかけてくるものだからだ。つまりこの親子、そもそも使っている言語というか、OSからして違う。ジョセフは「命令と成果」でしか会話できず、マイケルは「振り付けと音階」でしか本音を表現できない。この二人がまともに会話しようと思ったら、間に優秀な同時通訳者を挟まないと、永遠に嚙み合わない。
本来この「通訳者」の役目を担うべきなのは母親だったはずだ。しかし映画を見る限り、母キャサリンは優しい人ではあったようだが、残念ながら息子の代弁者になれるほどの問題意識と問題解決スキル、そして何より夫という絶対権力者に正面から立ち向かう度胸までは持ち合わせていなかったようである。つまりこの家庭には通訳者不在のまま、直訳不可能な父と子が延々と平行線を辿り続けていたことになる。これはマイケルにとって、父の虐待とはまた別のもう一つの悲劇だったのではないかと思う。誰も自分の言葉を正確に翻訳して父に届けてくれない環境というのは、想像するだけで気の遠くなる孤独である。そりゃあ、あれだけ稼いで、あれだけ愛されても、どこか満たされない顔をしているわけだ、と妙に納得してしまった。
父ジョセフは2018年に亡くなっている。冒頭で書いた通り、この映画は沢山の人の権利が絡む物語なので元々描ける範囲が極端に狭い。映画化にあたって、亡くなっている父を悪者にすることによって収まる部分も多いだろう。だから、何れにせよ、ジャクソン家の子供たちを世に放ったのは父であるのは確かなのであるからと、ジョセフの功績が全くなかったとは言い切れない。
マイケルの素顔に触れられる映像作品として、『THE MAKING OF THRILLER|メイキング・オブ・スリラー』がある。PV(マイケルによると“ショートフィルム”)「スリラー」の制作過程を追ったドキュメンタリーだが、父親からようやく解放された青年マイケルが、大好きだったホラーやファンタジーの世界を、自分の趣味全開で音楽フィルムに昇華させていく過程がそのまま記録されている。陽気で人間味あふれる監督ジョン・ランディスとのやり取りの対比がまた絶妙だ。ジョンは細く華奢なマイケルを2度も担ぎ上げて、ひっくり返す。恥ずかしそうにするマイケルもとても楽しそう。マイケルが自分の野望を語って生き生きしている様子は、演技では絶対に出せない説得力がある。父親という名の独裁者から解放された途端、これだけ自由な発想が溢れ出るのだから、逆に言えばそれまでどれだけ抑圧されていたのか、と考えると切なくもなる。




